第一話『執事に首っ丈』
稟湖が家族や親戚以外の異性と対面するのは三歳になってからが初めてだった。
それまでの期間の中で執事と恋をする夢を見た事がある。
お嬢様と執事が恋をする本を読んだ事がある。
とある令嬢が執事と恋に落ちたという噂話を耳にした事もある。
この時点で、稟湖は執事と恋をする事に大きな憧れを持っていた。執事と恋がしたい。執事なら誰でも構わない。自分だけに仕える執事であるのなら、どんな人だって愛せよう。
そして執事が欲しいと父へ直談判しようとしていた稟湖は、しかし自身が動かずとも近い未来に専属の執事が現れる事を知る。
その執事が熟年であったとしても、訳ありであったとしても、たとえ相手にどんな負の要素があったとしても稟湖は心の底から喜ぶ未来が見えた。そんな稟湖がこの後初恋を体験するのか否かは、もはや言うまでもないだろう。
時は経ち、十三年後――。
春の陽気が薄れ始めた朝の時刻、寿慶門財閥の三女である寿慶門稟湖は丁重なノック音と優しい声で目を覚ます。
「稟湖お嬢様、朝で御座います」
「ええ、信清。目が覚めました。入っていいわ」
そう許可を出せば、仰々しい部屋の扉はゆっくり開かれ、稟湖と同い年の褐色の肌をした執事――六輪信清が室内に入ってくる。
「お早う御座います稟湖様」
「信清。おはよう。起こしてくれてありがとう」
「とんでも御座いません。本日も起床のお手伝いが出来、大変嬉しく思います」
そう言って美しい一礼を見せてくる信清に、朝から胸が爆発してしまいそうだ。何を隠そう稟湖は、目の前にいるこの信清の虜である。三歳になって少し後に出会った日から、まるで魔法のように彼に恋をしてしまった。一目惚れ、というのは正しくないかもしれない。
稟湖は執事が自身に仕えると父に聞いた時から、自分だけの執事という存在を意識した瞬間から、もうすでに見えない執事に恋をしていた。それが信清だった。
ベッドから離れ、自室に備えられた洗面台で歯を磨き終えた稟湖が広間へ戻ると、信清は淹れたての白湯をガラスのコップへ注ぎ終えていた。そうして戻ってきた稟湖にそちらを差し出してくる。
稟湖は自身の高鳴る胸を楽しみながらそのコップを受け取り、一口飲み込んだ。すると信清は柔らかく口を開いてきた。
「稟湖様、本日はお稽古のある日で御座います。間食をご用意しておりますのでご出発前にお渡しさせていただきます」
「ええ、助かるわ。お稽古のある日ってどうしてもお腹が好いてしまうのよね。今日の間食は誰が作ったものなの?」
淡い期待を抱きながら稟湖は信清に問い掛ける。そうすると信清は優しく目元を細めながらこちらに視線を合わせ、声を発した。ああ本当、なんて素敵な執事だろう。
「本日は僭越ながら僕がお作り致しました。お口に合いますと幸いです」
「あら、信清が作ったのね。それは楽しみだわ。夜に感想を伝えますからそれまで寝てはダメよ?」
稟湖はこれでもかというほどに口元が緩みそうになるのを抑えながら、そう彼へ言葉を告げる。信清はそんな主の言葉にも柔らかく目を細め「勿論です、稟湖様。稟湖様ご本人から感想を頂けますこと光栄に思います」なんて幸福な言葉をプレゼントしてくれるのだ。
(好きだわ信清。ふふふ、好きすぎて頭の中が真っ白よ……)
「信清、好きよ。今日もありがとう」
そしてそんな彼にメロメロな稟湖はいつものように心からの笑みを顔に出し、偽りのない想いを彼に告げる。そう言葉を向ければ、誠実な執事は嬉しそうに目を緩め、柔らかい言葉を口にした。
「勿体無いお言葉感謝いたします。本日もどうか素敵な一日をお過ごし下さいませ」
信清は稟湖の真意である熱い想いを理解してはいない。彼は確実にこれを親愛だと思い込んでいる。それは分かっていた。ただ稟湖はそれでも信清に好きを伝えたかったのだ。
「時に稟湖様。本日はどのような運動のご予定かお聞きしても宜しいでしょうか」
ソファに座り、白湯の入ったコップを机の上に置いた稟湖に信清はそう尋ねてくる。稟湖は一拍の間を置くとすぐに口を開いていた。
「ええ、今日はストレッチと筋トレでもしようと思うわ」
「それは大変健康的かと。それではこの後迅速にジムの設備を整えて参ります。是非簡単なお食事も摂られてからお越し下さいませ」
「ありがとう、信清」
稟湖は毎朝少しの時間運動をする習慣がある。毎日その時の気分でメニューを変えている為、家に備えられているジムに行く時もあれば大きな運動場に行く時もあった。朝の時間は忙しいが、健康維持と自身の体を動かしたいが為に稟湖は毎日このような日課をしっかり行なっていた。
「今日もいい汗を掻きたいわ」
ジムが備えられた部屋に入ると稟湖は早速ストレッチを始め、その後に様々な器具を使い筋トレを行う。途中で片方百キロのダンベルを軽々と持ち上げた稟湖はそのまま時間が来るまで多くのトレーニングを続けていた。
そして予め決めていた時間まで運動を行うと、ノック音の後部屋へ入ってきた信清に「稟湖様。お時間になりました」と声を掛けられる。彼は清潔なタオルと大きな水筒を持ち運んできてくれており、稟湖はお礼を言いながら汗を拭い飲み水を一気に飲み干していた。
「本日もお疲れ様で御座いました。素晴らしい汗を掻かれたことと存じます」
稟湖は怪力持ちだ。生まれつき筋力が発達しており、これに関しては稟湖の右に出る者はいない。身体能力も優れており、体を動かす事であれば稟湖に出来ない事はなかった。家族や学校の生徒、どの従者と比べても稟湖より優れた運動神経を持つ者は身近にはいなかった。
自宅でも学舎でも常日頃財閥としての気品さを意識し周囲から評価を得てはいるが、それと同時に稟湖の怪力さも周りから認知されている事だった。たとえ命を狙われたとしても稟湖は絶対的に相手を返り討ちにできる自信がある。その根拠はあった。
稟湖がまだ四歳の時、身代金目当てで一度だけ誘拐されそうになった事があるのだ。物騒な刃物を持つ大人に囲まれた稟湖であったが、自前の怪力で捕まることもなく、誘拐犯らを無力化しロープで縛り上げ警察に引き渡したという経験を持っている。
稟湖がその気になれば相手の腕を折る事は容易だ。そして実力で相手の戦意を喪失させるのも得意な事だった。それは十年以上経過した今でも変わる事はなく、むしろ稟湖の筋力は以前よりも更に増している。勉強はそう得意ではないものの、身体能力の高さだけは逸材と言えるのがこの稟湖であった。
あまりにも非現実的な話ではあるが、たとえどのような状況であったとしても、稟湖はファンタジーの世界のように敵対する相手を無力化出来るという自信がある。
ただ、力加減を誤ると善良な者にまで危害を加えてしまう事態が発生する為、日頃から力の制御には十分に気を付けていた。罪の無い誰かを傷付けてしまうだなんて絶対にあってはならない事だ。稟湖は己の強さを自覚してはいるものの、この力を使うのは誰かを守る時と自分を守る時だけだと毎日のように自分へ言い聞かせてもいた。
「うふふ、そう言ってくれて嬉しいわ。信清の淹れてくれたお水もとっても美味しくて最高よ。運動の後のお水って本当に美味しいわよね」
「お褒めに預かり光栄で御座います。運動後のお水に関しまして僕も同じ意見です」
気持ちよく運動を終えた後に意中の相手と会話が出来るこの状況は控えめに言っても幸せな事である。信清からの肯定的な意見も純粋に嬉しい。そのまま稟湖は少しだけ信清と会話を続けると、支度のため一度自室へと戻るのであった。
「稟湖様、ご準備に入らせていただきます」
「ええ、お願いね」
自室へ戻ってきた稟湖の部屋にやって来たのは専属メイドの足立椿延だ。彼女は稟湖が産まれた時からずっとそばで仕えてくれている歴の長いメイドであり、稟湖より十五歳年上である椿延は信頼の出来る数少ない従者でもある。
彼女はいつも笑顔を絶やさず、安心する空気感を生み出してくれる素敵な女性だった。ちなみにこれは他の従者に聞いた話であり決して稟湖に向けてされた事ではないが、椿延は怒る時も笑顔で怒りを見せるのだとか。
「ねえ、椿延。今日は信清が私のおやつを用意してくれたみたいなの。私とっても嬉しくて。もう朝から最高の気分なのよね」
椿延に身なりを整えられ、稟湖の長い髪の毛が柔らかいブラシでとかされていく。そのまま編み込まれていく自身の髪を鏡で見つめながら、稟湖は頬を染め信清への愛を語り始めていた。
「稟湖お嬢様のお気持ちが弾まれたのなら何よりで御座います。六輪が間食を用意する日数を増やせるよう今後も調整致します」
「ふふ、お願いするわね。私、今日も好きを伝えられたわ。好きな人に好きと伝えられるのってとても幸せね」
「稟湖様の幸せが、私にとっても何よりの幸せで御座います。どうか本日も素敵な日々をお過ごし下さいませ」
椿は稟湖が信清を好きだという事を知っている。なんでも話せる彼女に稟湖は毎日のように信清の話を聞いてもらっていた。椿延は全面的に信頼の置けるメイドであるが故に、稟湖のプライバシーな事まで全部を知り尽くしている。口の固いメイドなので、この稟湖の想いが露見する心配も全くなかった。ノーリスクで話し相手がいるというのは、控えめに言っても有難い環境である。
しかし、寿慶門財閥の令嬢である稟湖が、一介の執事に首っ丈である事を大っぴらに明かす事は出来ない。稟湖には婚約者という存在がいるからだ。だからこそ、稟湖は家族にはそのような話は一切していないし、当の本人である信清にもはっきりと明確な好意を伝えてはいない。稟湖の本心を知る者は本当に限られた者だけだった。
「それじゃあ行ってくるわね。みんな、今日も朝からありがとう」
椿延の迅速で丁寧な支度が終わった稟湖は、いつものように通学鞄を手に持ちながら広々とした玄関の前で見送りに出ている従者達へやわらかな笑顔を向ける。いつも自分のお世話から見送りまでしてくれる従者達は稟湖にとってとても大切な存在だ。それは信清だけに限らず全員へ感じている偽りのない親愛である。朝の支度をしてくれる椿延。朝食を作ってくれる料理長。些細な事柄に気を回してくれるメイド達。皆大切な従者達だ。ただ稟湖が恋愛感情を向ける唯一の相手は絶対的に信清のみなのである。
「勿体無いお言葉痛み入ります。どうかお気を付けて行ってらっしゃいませ稟湖お嬢様」
そのまま執事とメイドに見送られ稟湖はリムジンに乗る。見送る従者の中にいる信清へ想いを募らせながらも、稟湖は気持ちを抑え学校へ向かっていった。
「稟湖さん、良ければご一緒に昼食を摂りませんか?」
「教室でも食堂でも、わたくし達お付き合い致しますの。いかがでしょうか」
学校へ到着し、早くも半日が経過していた。昼休みを迎えると稟湖はクラスメイトの二名からそのような声を掛けられ、しかしすぐに眉根を下げてお断りの言葉を発した。クラスメイトの気持ちに応えられない事に申し訳なさが生まれていたものの、誘ってくれる彼女らの優しさに気持ちは温かくなる。
「お二人共ごめんなさい。今日は婚約者との先約がありますのよ」
そう言葉を返すと、目の前の二人は口元に手を当てながら「それは大変微笑ましい行事ですわ」と僅かに頬を染め始めていた。稟湖はそんな彼女らに視線を向け続け、もう一度言葉を口にする。
「そう仰ってくださり嬉しいですの。後日改めて私の方からお食事の誘いをさせて下さいな。お誘いとても嬉しかったですわ」
「稟湖さん……!! お待ちしておりますわね!」
稟湖はそう言ってニコリと本心からの笑みを溢す。そうすると、対面しているクラスメイトの二人は嬉しそうに目を輝かせその場を立ち去っていった。
中高一貫であるこの学校では知り合いもそう少なくはない。友人と呼べる存在も稟湖には数多くいると自負している。
しかし一年前に最も親しい友人が留学に行ってからは特定の誰かと共に行動をする事はなく、稟湖はその時々に関わっている者達と行動をしていた。そのため昼食の時間もいつも同じ相手と食べるという習慣はなく、今回のように不定期に誘ってくれる者が何人か校内にいるのである。
稟湖のように一つの集団に定まらない人間をこうして誘ってくれる人がいるという状況は決して当たり前の話ではなく、彼女達の優しさなしには起こり得ない事だと日々感じている。ゆえに彼女らの気遣いには心からの感謝を向けずにはいられない。
話し掛けてくれたクラスメイトの二人を見送った後、稟湖はいつものように椿延から渡されたこ綺麗な弁当バッグを手に持ちそのまま教室を後にしていた。そんな稟湖の胸は自然と弾んでいる。そう、これからの行事は稟湖にとって高揚感なしではいられないそんな時間だったからだ。
「それでね、今日も私は信清に好きと伝えて来たのよ。信清の顔はいつも通り優しくって、もう本当に朝からイベントが盛りだくさんだったわ」
稟湖の通う白冠学院は財閥に生まれた者が多く滞在する学舎だ。ゆえに設備も充実しており、事前に申請を出していれば昼休憩時に個室を貸切で使う事も出来る。
今日稟湖は予め約束をしていた婚約者との昼食会を控えていた為、学校側に申請書を提出し、完全な個室となっている屋内の部屋で昼食を摂っていた。そしてこれはとても重要な事なのだが、完全個室でありながら完全防音室でもあるため声は一切外に漏れない仕様となっている。そう、内緒話をするのならここに限るのである。
「朝の見送りの際にも信清は柔らかい顔で私を見送ってくれていたのよ。ああもう、思い出すだけでドキドキしちゃう」
稟湖はそう言って口元に手を当てながらニマニマと表情を緩ませる。そんな稟湖に対面する形で席に座っている婚約者――龍宮寺次富はこちらの興奮気味な惚気話を前にしてこんな言葉を口に出していた。
「ほんと信清はカッコいいよな。話聞いてるだけで想像出来ちまうもん。あいつ本当に同い年かって思うくらい立派な執事だよな」
「そう、そうなのよ。信清って同い年に見えないくらい本当にしっかりしているの。やだ、次富のせいで信清のカッコ良さにもっとドキドキしてきちゃったわ」
「ときめきに上限とかねえからな、素直にときめいとけよ。幸福度が上がるぞ」
一見、婚約者同士とはとても思えないようなそんな会話だ。しかしながら、稟湖と次富にとってこのようなやり取りは日常的な会話であった。二人のこの関係は初めて出会った時から何一つ変わってはいない。
「うふふ、早くこの事を共有したかったからこの時間を楽しみにしていたのよね。次富はどう? 最近嬉しい事はあったの?」
稟湖は一呼吸おいてからそう尋ねる。すると、目の前に座る婚約者は嬉しそうに口角を上げながら「そうそう、聞いてくれ」と口を開いた。
「昨日はあの子が俺を起こしに来てくれた日でさ、昨日の俺は一日絶好調だった。夕飯もあの子が配膳してくれたんだけど、マジで動作が全部可愛いんだよ」
「まあ、それはあまりにも素敵な一日ね。礼葉ちゃんは女の私から見ても動作が大変可愛らしいもの。愛嬌もとても良いですし」
「そうなんだよなー、他のメイドとも仲が良いんだろうなって見てて分かるしマジで性格いいのが会う度伝わってさ。俺も首っ丈だよ、礼葉に」
「ええ、ええ。よく分かるわ。好きな人ってどうしてこんなに胸を高鳴らせるのかしら」
「マジそれなー」
これは婚約者同士の恋バナだ。次富もこちらと同じで一つ年下の己の従者に恋をしている。稟湖は次富とする恋バナが好きだった。それは彼が自分と全く同じ立場の恋愛をしており、稟湖にとって唯一の同類だからである。彼とは婚約者でありながらも互いに別の相手を好いている。この事実を知る者は稟湖と次富、そしてメイドの椿延だけだ。
「稟湖は次いつ来るんだっけ?」
話が一段落すると、次富はそんな事を聞いてくる。稟湖は食後の紅茶を口に含んだ後、声を返した。
「来週の週末遊びに行かせていただくわ。信清も連れてくるわね」
「ああ、それがいいな。俺も礼葉に同行してもらおう。これってダブルデートみたいじゃないか?」
「うふふ、そうよね。ダブルデートって響き、好きだわ」
次富とはどこかで円満に婚約破棄をするという約束を交わしている。だがそれは二人の間でのみ決められた約束であり、今はまだ互いの家族にその話をしてはいなかった。婚約破棄をするのならばお互いの想い人からの確実な好意が必要となってくる。意中の相手と将来を共にしたいから婚約破棄をしたいのだと、それくらいの理由がなければ婚約の解消は難しいだろう。
稟湖には三人の兄妹がいるが、全員が婚約者との婚姻を結んでいる。婚約破棄なんて事例は寿慶門家には一切ないのだ。つまりは相応の理由なしに次富との婚約を白紙にする事は非常に難しい状況なのである。
現時点では稟湖と次富どちらも従者に片思いをしている状況であり、決して両思いではない為、婚約の破棄以前にまずはそれぞれを振り向かせる事が先決となっていた。
しかし稟湖が想いを寄せる信清も、次富が想いを寄せている礼葉も、あまりに従順な者であるがゆえに、主に恋心を抱くなどという可能性は極めて低いのも事実だ。いや、このままではもはやゼロと言っても過言ではないだろう。まして、彼らにとっては婚約者のいる主人なのである。真面目な二人にとっては、そんな主に異性として想いを向けるなんて事は不敬だと感じてしまっても致し方ない。実際、そのような事が不敬である事も否定できない。だからこそ、こちらの方から動かなければ稟湖も次富も恋は実らないだろうと、そう確信を持っていた。
「そういや、今回のテストは数学に苦戦したんだってな? 次来た時勉強も見てやろうか」
食事が終わり、二人は個室を離脱していた。そのまま次の授業に向かうべく途中まで廊下を歩いていると次富にそんな言葉を繰り出される。
「そうね、教えてもらおうかしら。数学は本当に苦手だわ」
次富は勤勉で頭が良い。常に学年順位が一位の優れた男性だった。稟湖はそんな彼を一人の友人として尊敬している。稟湖の言葉に次富は頷くと、そのまま話題が勉強の話になっていた。
基本的に二人でいる時は互いの恋バナを交わしたいのが本音であるが、誰が聞いているか分からない学校の廊下でその話をするのは推奨される行為ではないだろう。ゆえに誰に聞かれても支障のない話をするのが安全なのである。
そして歩きながら二人で勉強の話を続けていると、広い廊下で何名かの団体とすれ違う。
「ねえご覧になって。龍宮寺さんと寿慶門さんよ。とってもお似合いだわ」
「あのお二人、いつ見ても仲が宜しいのね。雰囲気から溢れるオーラが素敵だわ!」
「美男美女ですもの。お二人の結婚式には是非とも参列させていただきたいわあ〜!」
そんな黄色い声がはっきりと聞こえてきた稟湖は彼女らの方に顔を向け、優しく笑みをこぼしながら「ご機嫌よう」と声を発していた。
そうすると、こちらに注目していた令嬢達はパアッと効果音が聞こえてきそうな程分かりやすくも嬉しそうに頬を赤らめ「ご機嫌よう寿慶門さん!」と弾んだ声を返してくれる。
続けて稟湖のすぐそばにいた次富も「皆さん午後の授業も乗り切りましょうね」と彼女らへ紳士的な言葉を向け、令嬢達はその発言にも先程のような反応を見せて可愛らしく返答をしていた。
そうして歓声を上げながら立ち去っていく彼女らを見送り終えると、二人は立ち止まっていた足を再び動かし始めていた。
あのように学園の同級生や下級生から次富とセットで見られる事は日常的にある。稟湖の家はそこまで大きな財閥ではないが、次富は有名な財閥の令息であるため注目を集めやすいのだ。だからこそ令嬢や令息が大多数在籍するこの学校で稟湖達はそれなりに目立ってしまう。
だが信清という大本命がいる稟湖にとってこのような状況は複雑な事でもあった。次富との関係性を羨望の眼差しで見られる事に真実は偽りだという罪悪感や、信清への想いを公表できないという歯がゆい思いがあるからだ。しかしこちらの本心を知る者はここにいる次富と椿延の二人しかいないのが現実である。稟湖の望み通りにならないのは当然の事であり、それは自分でもよく理解していた。
それに、こちらにキラキラとした曇りのない瞳を向けてくれる相手に無礼な態度は取りたくなかった。だからこそ稟湖は学園の生徒達に友好的な態度で接したいと心から思う。複雑な思いがあったとしても、こちらを慕ってくれる彼女達への感謝の気持ちも忘れたくないのだ。
(ふう、今日も一日色々あったわ)
学校と稽古が無事に終了し、稟湖は自宅で入浴を終えたところだった。この後は超ビックな大イベントが控えている。そう、信清とのおやつ感想会だ。とは言え、これは勝手に稟湖がそう名付けているだけなのだが、何を隠そう今日一番の楽しみがこの予定であった。
いつもの如く椿延にドライヤーで髪を乾かしてもらい、乾いた髪の毛を横に流しながら温かい白湯を飲んでいると、控えめなノック音が鳴る。きた。稟湖の胸はいとも容易く高鳴り始めていた。それは、昼間に次富と恋バナをした時よりも遥かに大きな高鳴りだ。
「稟湖お嬢様、失礼いたします」
「信清、楽しみに待っていたわ」
頬を緩めながら稟湖はそう口にすると、信清も呼応するかのように柔らかい笑みをこちらに向けて「そのように仰っていただき光栄で御座います」と嬉しい言葉を返してくる。相変わらず完璧な対応のマイ執事に惚れ惚れしてしまう。
「ふふ、ではこちらに座って下さる? 立ち聞きはだめよ」
「はい、稟湖様。お言葉に失礼し、座らせていただきます」
稟湖の言葉に素直に従った信清はそう一言添えてからこちらの示したソファへ静かに着席をする。信清と同じ目線の高さで会話ができるこの瞬間に気持ちは高鳴りまくっていた。稟湖はこくんと残りの白湯を飲み干すと、両手を合わせそのまま本題に入る。
「貴方の作ってくれたスコーンはとても美味しかったわ。隠し味に少しだけ紅茶を入れたわよね? スコーンの硬さも歯応えがよくって、あっという間に食べてしまったの。味も食感もすごく私好みだったわ」
目をキラキラとさせ、稟湖は感じた感想を素直に繰り出す。信清は執事であるがゆえに料理だって完璧だ。基本的には料理長が食事を用意してくれるが、稟湖の間食や休日の料理は信清が作ってくれる事もある。稟湖の好みを把握し、彼の作る料理に不満を抱いた事は本当に一度もなかった。彼を好きだという補正は一切抜きで本当の本当にないのだ。
今回のスコーンも、稟湖が全体的に硬いものを好んでいることを知っている信清が意図的に硬く焼き上げてくれたのだと直ぐに理解出来ていた。これに限らず彼は常に主人の好む食感を見事に再現してくれるのである。
彼に出来ないことは基本ないのだが、信清は料理の腕も本当に見事な手腕執事だ。その上、裏表のないこの真っ直ぐな優しい執事。ああ、なんて魅力的な従者なのだろう。
「稟湖様の仰られる通り、今回は隠し味に紅茶を少々混ぜ込んでおりました。スコーンが稟湖様好みの硬さに焼き上がるよう留意しましたので、そちらにもお気付きになられて大変嬉しく思います」
「まあ、思っていた通りなのね! 当たっていて嬉しいわ」
稟湖はそう言って上品に自身の口元へ両手を当てる。そんな稟湖に対面する信清は尚も穏やかな顔をして、微笑ましい視線でこちらを見つめてきた。これはもう、ときめき不可避な乙女イベントだ。稟湖の心の中は信清への愛で溢れかえりそうになっている。そして彼は続くように稟湖のハートを再度掴みにくるのだ。
「僕も稟湖様にお当てになられて大変嬉しいです。このような感想の場をいただける事にも日々感謝しております」
「ふふ、いつもありがとう。おかげで今日はとても良い夢を見られそうだわ」
そう言って稟湖はニコリと素直な笑みを溢す。信清も優しい微笑みをこちらに返し、二人はほんの一瞬だけ笑顔で見つめ合った。このひと時――深緋色の瞳と目を通わせられる時間に喜びを感じる。稟湖は幸福感で満たされていた。
すると、コンコンと丁重なノック音が室外から鳴り「稟湖様、そろそろ就寝のお時間で御座います」と椿延の声が聞こえてくる。
「あら、もうそんな時間なのね。健康の為にも眠る時間は守らないといけないわ」
時刻は夜の十時だ。残念な思いはあれど、しかし信清だってこの後も執事としてやる事があるだろう。遅くまで付き合ってもらっては彼の睡眠時間が減る事になってしまう。ゆえに信清や自分の為にもここで切り上げるのが英断だ。僅か十分程の会合ではあるものの稟湖は既に満足である。そのまま室内に入ってきた椿と椅子に腰掛けたままの信清に目線を当てながら「二人共ありがとう。今日はもう下がっていいわ」と優しく声を掛ける。
信清は音を立てずにソファからサッと立ち上がり胸元に手を添えるとそのまま綺麗な一礼を見せ、彼の後ろに佇む椿延も同じように一礼を見せてくる。そうして二人はおやすみなさいませ稟湖お嬢様と綺麗に声を重ねた後、丁重な足取りで部屋を去っていった。
稟湖も腰掛けていたソファから立ち上がり、寝る支度を終えると布団を胸元にかけそっと目を閉じていた。
稟湖が信清に心酔したきっかけは彼が執事だからである。
例えば、万が一稟湖に仕える初めての執事が信清ではない誰かだったとしたならば、稟湖はその信清ではない誰かを好きになっていた。それは間違いないだろう。稟湖は執事であれば本当に誰でも良かったのだ。とにかく当時の自分は執事と恋がしたかった。その点に関しては何も嘘はない。
信清は優秀な執事だ。頭も優れ、護衛だって完璧にこなす。稟湖に護衛が必要ないだけで、彼の護衛能力はとても高い。そして料理の腕前もあれば掃除だっていつも素早く丁寧に行う。正直、あの年齢にしては出来過ぎている執事と言っても決して大袈裟な話ではない。彼は他者からも評価されている有能すぎる素晴らしい従者だ。
しかし稟湖が彼を好きになった理由に信清の優秀さは一切関係がなかった。彼がどんなに劣っている執事であったとしても、稟湖はその劣っている点に魅力を感じて信清に変わらず恋をしていただろう。
つまり、結局は信清が執事であったからという理由に尽きる。どんなに素晴らしい見た目でも、どんなに優れた能力があっても、信清が執事でなければ稟湖は恋をすることはなかった。
これが純粋な恋心なのかと問われると、いささか容易には頷けない。だがそれでも、信清への愛は本物だ。
最初こそ彼の執事というレッテルに恋をしていた稟湖ではあるが、十三年という時を彼と共に過ごし、稟湖の中で信清が執事という枠組みから抜け出している事も本当の事だった。だからこそ、自分が彼を好きだという気持ちに迷いなどは一切ない。
それにこの先もし、彼が執事ではなくなったとしても信清を変わらずに好きでいるのだという確信も今の稟湖の中には強くある。
(今日も素敵な肌の色をしていたわ……色素の薄い髪の毛もすごく眩しかったわね…うふふ)
そんな感想を抱きながら、稟湖は闇夜の中で意識を手放していた。
第一話『執事に首っ丈』終
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