番外編。兜悟朗と嶺歌が付き合い始めてからの話。メインはモブ視点。読了目安およそ13分
元恋人
* * *
「宇島くん?」
聞き慣れない女性の落ち着いた声が聞こえる。和泉嶺歌は自身の恋人――宇島兜悟朗の名を呼ぶ人物を振り返ると、そこには幼い少女と手を繋いだ一人の女性が立っていた。
「小野さん、久しぶりだね」
瞬時に彼女を『小野さん』と呼称した兜悟朗は、その女性――小野と知り合いのようだ。
「ママーだれ?」
すると小野と手を繋いでいた幼い女の子はママと呼ぶ女性を見上げながら不思議そうに尋ねる。小野は幼女に優しい笑みを向けながら「ママの昔の同級生よ」と答えていた。
「こんにちは。可愛らしいお子さんだね」
「ありがとう。久しぶり、上京してたんだね」
そう言って小野がチラリと嶺歌を見る。嶺歌は挨拶のタイミングがきた事を悟り、名乗りあげようと口を開くがそれより先に兜悟朗に紹介される形となっていた。
「こちらは僕の恋人の嶺歌さん。嶺歌さん、この方は僕の高校時代の同級生です」
「初めまして。お子さん、凄く可愛いですね」
「初めまして、どうもありがとう。自慢の娘なので、嬉しいです」
「ママ、めめ、ほめられてりゅ」
「うん、そうだよ。めめ良かったね」
小野はそう言葉を向けて自身の娘を愛おしげに撫でるとすぐに立ち上がり「それじゃあ」と小さく会釈をして立ち去っていく。その様子を兜悟朗と嶺歌は小さく手を振りながら見送っていた――。
* * *
十年以上昔の話だ。
飯原雨峯は買い物袋をリビングに置きながら過去を思い起こす。愛しの愛娘が雨峯に近寄り、頭を撫でてほしいとねだってくる様子を微笑ましく見つめながら、彼女を引き寄せ優しく頭を撫でてやる。そうして同時に先程の彼の言葉を反芻していた。
―――――『小野さん、久しぶりだね』
小野は旧姓だ。結婚してから苗字は飯原に変わっている。それを彼が知る筈もなく、また教える必要がない事も分かっていた。
(懐かしいな)
先程会った男性は、雨峯の人生で初めて出来た彼氏だった。ゆえに元恋人だ。
彼への未練は一切ない。ないのだが、ああした形で再会するとやはり少し昔の事を思い出してしまう。
兜悟朗と別れてからは雨峯もたくさんの恋愛を経験していた。そして五年前にようやく今の夫と知り合い、結婚に至ったのだ。彼はとても穏やかで優しく、雨峯に毎日愛情を向けてくれる。素敵な旦那様だ。愛おしい娘にも恵まれた。
だからこそ、雨峯は今の結婚生活に満足しており、元彼が現れたからと言って未練が生まれる事はない。
しかし、目を閉じると彼との昔の記憶が蘇ってくる。兜悟朗との別れは決して仲違いをしたからではなかった。
「宇島くん、好きです。その、付き合ってくれないかな?」
意を決して人生で初めての告白をした当時中学三年生の雨峯は、誰に対しても柔らかな姿勢で受け答えをするその穏やかな同級生に心を奪われていた。彼は、流石従者を育てる専門学校の生徒と言うべきか、誰から見ても模範的に見えるその奥ゆかしい態度で多くの生徒から注目を集めている人だった。
「小野さん、ありがとう。好きという感情がまだ分からないけれど、そんな僕で良ければお願いします」
「!!! ぜ、全然!! そんなの、これから知ってもらえれば……!!! ほ、ほんとにいいのっ!?」
嬉しさのあまり、声が上擦っていた。
「うん、本当だよ。ありがとう。好きと言ってもらえて嬉しいよ。宜しくね」
「う、うん!!! 私の方こそありがとう!!! よ、宜しくお願いします!」
それから雨峯は兜悟朗と付き合う事になった。毎日のように足取りが軽かったのを今でも覚えている。初恋が叶ったあの瞬間、とても幸せで毎日のように彼の事を考えていた。学校で会えれば兜悟朗のそばに行き、周りから羨ましがれる独特な視線は照れ臭かったが誇らしかった。兜悟朗も裏表などが一切なく、本気で雨峯を恋人として大事にしてくれているのが伝わっていた。
―――――――だが、所詮はそれ止まりだったのだ。
兜悟朗と付き合って二ヶ月が経とうとしていた。彼との関係は終始穏やかで一度も喧嘩をした事はない。付き合ってからも兜悟朗はいつも優しく、雨峯の要望を叶えてくれるまさに王子様のようなそんな存在だった。一緒にいる空気感も雨峯は好きだった。だが―――――
(全然、手を出してくれない)
そう、恋人と言えばやはりスキンシップの一つでも取りたいものだ。しかし兜悟朗は全くそのような素振りを見せてくる事がなかった。キスは勿論の事、手を繋ぐ初歩的な事ですら、雨峯から言わねばしてきてはくれない。
(それに……)
もう一つ、不満があった。彼は一度も雨峯を好きだと言ってくれた事がなかったのだ。まだ雨峯を一人の女として好きにはなってくれていないという事が必然的に分かってしまい、雨峯は次第に不満が高まるようになっていた。
「ねえ宇島くん、キスしたい」
付き合って三ヶ月が経とうとしても、彼からの接触がなかった事から、雨峯はプライドを捨てて自ら求める事にした。兜悟朗の優しさは薄れる事なく日々続いていたが、どんなに待っていても彼から手を出される事だけは本当に一度もなかった。
兜悟朗は雨峯のその勇気を出した要望に、穏やかな笑みを向けて頷いてくれていた。
「小野さんがそう思ってくれているなら。でも僕はまだ君の事を一人の女性として……」
「いい。それはゆっくりでいいの」
十分に分かっている。だが彼が自分を大事にしようと思ってくれているのが嬉しいと、そう思って雨峯はそう言葉を返していた。そのまま雨峯の方から接近すると、彼の顔に自身の顔を近づけ、そして兜悟朗の方から唇を重ねてくれた。
あの時の感覚も、とてつもない喜びで満ちていた。雨峯はそれまで不満であった感情が一気に吹き飛ぶのを感じながら兜悟朗との口付けをその日から行うようになっていった。
しかしそれも長くはなかった。
キスのその先が、また欲しかったのだ。けれど兜悟朗からその先を求められる事はない。キスだってしてはくれるものの、いつもこちらから求めなければしてくれる事はない。やはりまだ、彼は自分の事を真に愛してはくれていないのだと、そう感じざるを得なかった。
いつも優しい兜悟朗は、その素晴らしい程に秀でた才能で校内ではいつも目立っていた。そして謙虚な姿勢を見せる彼はどんな女性からも好かれていた。ゆえに恋人という雨峯の存在があろうとも、彼が密かに別の女性から告白を受けていたり、多くの女子生徒から好かれている事も知っていた。
一度兜悟朗の告白現場を見てしまった事がある。彼は自分の事など好きではないのだから、乗り換えられてしまうかもしれない。雨峯はそんな恐怖心でその場から動けなかった。
「僕には大切な恋人がいるから君からの告白には応えられないよ。ごめんね」
しかし兜悟朗が告白を受ける事はなく、瞬時にはっきりと断っていた。それを目の当たりにした雨峯は、彼がとてつもなく愛おしくなり、好かれていなくともそばに居たいと強く感じるようになっていた。迷う事なく即答してくれた事実が、本当に嬉しかったのだ。嬉しかったのだが――
大切な恋人――――その言葉が、嘘偽りない事は雨峯が一番よく理解していた。ただそれが、一人の女としての意味ではない事も知っていた。だからこそ、とても……やるせない思いにもなっていたのだ。
「お願い……あなたとしたい」
交際をしてから半年が経った。キス止まりで終わっていた二人のスキンシップを、雨峯は我慢できなくなっていた。この人から求められたい。その感情は、付き合う日が経てば経つほどに膨らんでいき、雨峯は自身の誕生日にようやく、口にする事ができていた。
雨峯の為にと選んでくれた素敵な腕時計の誕生日プレゼントは、彼がバイトをして購入してくれていた最高の贈り物である事を知っている。周囲に話せば誰もが羨むであろう素敵なサプライズだ。彼が恋人である自分をとても大切にしてくれている事は本当に嬉しい。しかし嬉しいと同時に、それが悲しかった。だからこそ、彼からの行為を求めた。
「申し訳ないけど、半端な気持ちでするのは君に失礼だと思う。だからそれはしたくないな」
キスの時とは違い、彼は否定する姿勢を見せてきた。今思えばこれは彼なりの優しさだったのだ。雨峯の初めてを、自身の中途半端な思いで奪いたくはないのだと、彼はそう思ってくれていたのだ。
しかし雨峯はどうしても彼からの愛が欲しかった。行為自体が愛であるとは思わない。だがあの頃の雨峯はそれを信じてしまっていた。抱いてくれれば愛なのだと――。
「お願い。一生のお願い。私、宇島くんとしたいの。あなたじゃなきゃ嫌なの。誕生日……だから……………」
何度懇願しても兜悟朗は頷いてはくれなかったが、雨峯が日を改めてもう一度懇願すると、彼は困ったような顔をしてこのような事を口にした。
「僕はまだ君を一人の女の子として好きだと思えていないんだ。そんな僕でもして欲しいって思うの?」
「うん、それはいいの。してほしい。一緒にできる事、したいよ。だって彼氏彼女なんだよ」
雨峯はそう口にすると兜悟朗はしばし思考してから「分かったよ」とこちらの希望に応じてくれたのだ。その時の雨峯は、いつしかのキスの時のように嬉しい気持ちで満たされ、彼との初体験を幸福な感情だけで過ごせていた。
初体験は誰もが痛い思いをするのだと、耳にタコができるほど聞いていた。だがその痛みは、雨峯には一切起こらなかった。
(宇島くん……すっごく上手なんだ)
兜悟朗の行為が、どれほど上手なのかは何もかも初めてであった雨峯には分からない。だが彼に触れられる身体全てが心地良く、終始幸福感で満たされていた。兜悟朗も初めてであるはずなのに、そう思えないものを感じていた。本当に、兜悟朗はなんでもできる人なのだ。
(こんな素敵な人が私の彼氏なんだ……)
その瞬間はただそれだけが本当に嬉しく、彼と一つになれた事がひどく喜ばしかった。だがやはりその感情も――――長くは続かないのだ。
彼との行為が何度か行われて思った事は、やはり愛を感じられないという事だった。兜悟朗との行為は、形だけで心が通い合っていなかった。それは兜悟朗に雨峯を愛する感情が欠如している事を分かっていたからだ。体は満たされても、心が満たされないのだ。虚しくなるだけだった。
兜悟朗は嘘を吐かない。律儀で誠実な彼は絶対に虚言を口にする事がなかった。だからこそ、そう、だからこそ雨峯との行為の際にも愛を囁かれる事は一度もなかった。それが最初こそ気にならなかったものの、次第に頭の中で靄となっていた。
口付けを交わしてもこちらの髪の毛を優しく撫でてくれるだけで決して嘘の愛を囁いてはくれない。もはやそれが本物の愛でなくてもいい。だから嘘でもいいから好きだと、愛おしいとそう言ってほしい。そうは思っても嘘を決して口にしない兜悟朗は絶対にその言葉を向けてくれる事はなかった。それがとても――――辛かった。
兜悟朗は完璧な彼氏だ。優しく穏やかで、思い通りに行かなくても決してこちらを責めたりなどしない。いつも我儘を受け入れてくれ、誕生日のサプライズも完璧だ。デートの際にはこちらを喜ばせようと想像の百倍素敵な事をしてくれる。いつだって身だしなみに気を遣い、こちらの些細な変化にも気付いては褒めてくれる。そんな素敵な男性だ。だけど――――
(愛が、欲しい)
そう、そんな完璧で素晴らしい彼氏でも愛だけはくれなかった。雨峯を愛する事を、彼は出来ないのだと、ようやく気付けたのは兜悟朗と付き合って一年後の事だった。
兜悟朗がこちらを大切に思い、人として好いてくれていることは分かっている。兜悟朗は決して口にはしないが、彼が雨峯を突き放さないのは、彼自身もこちらを好いてくれようと、愛そうと努力してくれているからだという事にも気付いている。
だがその好きが恋としての好きになる事は絶対的にない事も、ここにきて分かってしまった。だからこそ雨峯は、兜悟朗に別れを告げる事にしたのだ。
「宇島くん、ごめん。別れよう」
少しだけ、反対してくれる事を期待した。もしかしたら最後の最後で、惜しいと思って愛に変わってくれるのではないかと期待してしまう自分に嫌気がさしながらもその感情を完全に消し飛ばす事は出来なかった。だが兜悟朗は――――寂しそうにこちらを見てただ静かに頷いた。
「悲しい思いをさせて本当にごめんね」
「私の事、やっぱり好きになれなかった?」
彼の謝罪自体が「最後まで一人の女の子として好きになれずにごめん」と言われたようなものであったのだが、きちんと確かめておきたかった。未練を残したくはないのだ。
すると、兜悟朗は口ごもりながらこちらに視線を向けて話すのを躊躇っていた。雨峯はその様子を見てすかさず声を上げる。
「最後だからちゃんと教えてほしい。言ってくれたら……諦めるから」
そう真剣に言葉にすると、兜悟朗は尚も心苦しそうな表情をして、しかしきちんと要望に応える。
「人として小野さんの事はとても好きだよ。だけど、女性としての好きにはなれなかった」
「そっか…」
もうこれ以上の言葉は必要ない。
好かれてはいても、愛ではない好意を雨峯は受け入れる事ができない。そう再認識した雨峯は、頭を深く下げて謝罪してくる兜悟朗を泣きそうな目で見つめながら「さよなら」と残すとそのまま振り返らずに立ち去って行った。本当に――素敵な彼氏だったと僅かな後悔を残しながら。
付き合って一年が経っても互いの呼び方は苗字呼びから変わる事がなかった。
下の名前で呼び合いたいと思った事は何度もある。だがそれを雨峯から提案する事は出来なかった。
――――――宇島くんが私を本当に好きになってくれたら、呼んでもらいたい
そう思っていたからだ。だが兜悟朗が雨峯を好いてくれることはなかった。ずっと他人行儀のような苗字呼びは変わる事なく二人の関係は終わりを迎えたのだ。
これが自分たちの運命なのだ。それを雨峯は一人で泣きながら受け入れていた。
(あれからもう十五年くらい経つのか)
夕飯の支度をしながら昔の初恋を思い出していた雨峯は、それからつい昼間に見た兜悟朗の恋人の姿を思い浮かべる。
私服であったため実際のところ年齢は分からないが、彼とは歳が随分離れている印象だった。しかし見た瞬間にとてもお似合いだと感じたのも事実だ。
(それに……)
兜悟朗の彼女を見ている視線は、雨峯が今までに見た事のない愛情に溢れた視線だった。一年間彼と交際していた雨峯には一度として向けられた事のないあの視線は、彼が特別な相手を見つけた何よりの証拠なのだろう。
(凄く、幸せそうだったな)
兜悟朗が今の恋人を如何に愛し、大切にしているのか、久しぶりにそれもたった一瞬会っただけで分かってしまうのだ。
きっと雨峯が想像する以上に二人の愛は深いのだろう。それとは対照的なあの頃の自分を思うと、少し切ない感情が生まれてくるが、しかし雨峯は今とても幸せだ。だからなのか、彼が真の愛を見つけられていた事が心から嬉しいと思えている自分がいた。
(よし! 夕飯もっと作るか!)
自然と笑みが溢れ、愛しい娘と夫の顔を思い浮かべながら雨峯は気合いを入れる。そうしてもう二度と会う事がないであろう元恋人の事をすっぱり忘れると、鼻歌まじりで料理に精を出すのであった――――。
* * *
嶺歌は先程のやり取りを見てから察していた。そう、これは絶対…………
「元カノですよね?」
「嶺歌さん、流石の洞察力でございます」
兜悟朗と二人、小さなカフェで向かい合っている時、嶺歌は単刀直入に先程の女性の事を問い掛けていた。いや、もはや確信していたため問い掛けたと言うより、確かめたと言うのが正しいだろう。
「お気付きになられていましたか」
兜悟朗はそう言って困ったように薄く笑う。あの空気感はどう見ても元恋人以外に思いつかなかった為、洞察力が優れている訳ではないと、嶺歌は自分の思った事を率直に口に出す。
「女の勘です。やっぱりそうですよね」
「お見事です」
兜悟朗は否定をする事はしない。ただやはり、彼の性格からして嶺歌を気遣ってくれての黙秘だったのであろう事は理解できていた。兜悟朗としても元恋人に偶然会ってしまった事を今の恋人に伝えるのは酷だと感じているのだろう。そんな事を思いながら彼を見つめていると兜悟朗は、少しだけ困った表情を見せた後に、こんな言葉を付け足してきた。
「そうですね、彼女は僕が愛せなかった女性の一人です」
(愛せなかった…………)
それを聞いて嶺歌は兜悟朗の過去の話を思い出す。兜悟朗は嶺歌と付き合う前に女性経験こそあったものの、本物の恋心というものを知らなかったのだ。彼は口にしないが、きっと愛する事が出来なかった元恋人たちに少なからず罪悪感のようなものを感じているのかもしれない。
それを瞬時に思い起こした嶺歌は兜悟朗の目に視線を向ける。すると彼の深緑色の瞳と、目が合った。
「今は、愛せる女性が隣におります。とても幸せな事です」
「……っ」
(うわあ……)
目が重なるように合わさった瞬間そう告げられた嶺歌は、途端に顔が真っ赤に染め上がる。そんなのは反則だ。兜悟朗は紛れもなく元カノに未練などない。それは嶺歌自身がよく分かっており、そんな不安を一ミリも感じさせない程に兜悟朗はこちらへとんでもない愛情を向けてくれているのだ。
「嶺歌さん、いつもありがとうございます」
「そんなの、あたしの台詞ですよそれ……」
赤らめた顔を手で隠し、そう兜悟朗に言葉を向けると、兜悟朗は優しい微笑みを向けながら嶺歌の頭を愛おしげに撫でてくる。ああ本当にもう、この人には敵いそうにない。
「嶺歌さん、大好きです」
「あたしも……好きです。だいすき」
「はい、とても嬉しく思います」
「……はい」
「嶺歌さんは愛おしいお方です」
「………」
そんなやり取りをして最終的に赤面して黙りこくる事しか出来なくなった嶺歌は、しばし兜悟朗から温かな手の温もりを浴びせられるのであった。
二人の距離が更に縮まった事は、もはや言うまでもなく。
* * *